8世紀に造営された平安京には10以上の人工河川があった

 794年に桓武天皇が造営した平安京の都市計画は、朱雀大路に代表されるように基盤の目に整備された道路計画が有名ですが、10以上の人工河川が造られたことを知っている方は少ないようです。これらの東洞院川や烏丸川などの人工河川は、今では通りの名前として都人に親しまれています。これらの人工河川は、2つの役割があったと考えられています。一つは、排水。もう一つは舟運です。大内裏を挟む形で造られた東堀川(現在の堀川)と西堀川は、幅員が12mと広く、運河としての役割を持っていました。その他の河川は、ゴミや生活排水を流す役割を持っており、幅員は1.5~3mでした。これらの河川を整備する技術を京都の人は、5世紀には持っていました。このことは、5世紀後半にこの地の豪族であった秦氏が葛野川(現在の桂川)に、長さ数十mの井堰を造り原野を稲穂の実る水田に変えたことから知ることができます。
 この水を操る技術は、16世紀(江戸時代)に入り、京都に有料の運河を生み出すことになります。京都の豪商であった角倉了以は、1606年に保津川(現在の桂川)を開削し高瀬船の運行を可能にしました。以後、角倉家の支配で丹波の米や炭、塩、鉄材などが京都に運ばれることになり、3百年間(江戸時代)の長きに渡り角倉家の繁栄をもたらすことになります。その後、了以は大阪と京都をつなぐ舟運の重要なルートとである高瀬川の開削も行い、京都の大動脈が整備されることになります。
 水の権利を持つことが富みを築くことを知っていた都人は、東京に都が移った時に最初に行った事業が琵琶湖疎水でした。1894年に完成した日本の近代化の象徴ともいわれる、琵琶湖と京都をつなぐ20kmの第1疎水の整備は、京都と水との関わりから生まれた風土がもらたした一大事業だと言えます。
 また、京都で水に関わる構造物として忘れてはいけないのは、1591年に豊臣秀吉が都を守るために造ったとされる御土居掘です。御土居掘は土で造られた構造物で、土塁の高さ5m幅20m、堀の深さ4m幅15mとの調査報告があります。この全幅35mの構造物が京都の周囲を23kmを取り囲んでいました。この長大な構造物も、20世紀(明治時代)に入り姿を消すことになります。このような世界的にも類をみない歴史的構造物が、無秩序な開発の中で姿を消したことは残念なことです。

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