[宇治市]
河童の恩返し
宇治の「亀の茶屋」は、最初は、幸斎という百姓の家であった。
ある日の夕方、この百姓が馬を川端につないでおいたところ、河童が出て来て、馬を川の中へ引き入れようと、手綱を幾重にも体に巻きつけて引っ張った。
ところが、馬の方が力が強かったので、河童は陸に引き上げられ、馬屋に連れこまれて、逃げることができなくなってしまった。
そうこうしているうちに、近所の人も集まって来て、河童は今にも打ち殺されそうになったが、ある人が命乞いをしてくれ、「今後、この家の人は申すに及ばず、宇治じゅうの人に悪戯しない」と誓って許された。
そして、その翌朝から、この河童は命を助けられたお礼として、この家の戸口へ魚を二、三匹ずつ持って来ていたが、三年ほど後に、ぴたりと来なくなった。
何年か後に、この百姓が大阪の方に用ができたので、夜船に乗って鵜殿(現、高槻市鵜殿)の辺りを通りかかると、「幸斎さん、幸斎さん」と呼ぶものがある。
こんな夜更けに誰だろうと思って蓬(とま。覆い)を上げてみると、その下に五、六歳の子供ほどの者がいて、「命を助けていただいたお礼に三年の間、魚を届けてきましたが、宇治の辺りでは、もう魚を捕ることができなくなり、自分の食べるものさえ覚束なくなりましたので、こちらの方へ棲み家を変えました。ここから宇治までは遠いので、心ならずもご無沙汰してしまいました。お許しください」といって、川の中へ姿を消したという。
これは、『落穂余談』(四)に出ている話である。
[城陽市]
河童と鼈
いつの頃からか、大巣の池(浮遊水池)に河童が住みついたが、この河童には同じように背中に甲羅のある友達がいた。
ある夏のこと、河童とその友達が畑の西瓜を取ろうとしたが、畑の土が熱くなっていて近づけない。
そこで、池の方に延びている西瓜の蔓を引っ張ったが、西瓜は途中の石に引っ掛かって動かなくなってしまった。
しかたがないので、今度は河童が友達を西瓜のある所に投げることにした。
河童が友達を力いっぱい投げると、友達の首が西瓜の中に入り込んでしまって、友達は首を抜こうと手足をバタバタさせた。
ちょうど、そこへやって来たのが、見回りの役人だったので、河童はあわてて手を伸ばして友達の尻尾を引っ張ると、「スッポ−ン」と音がして、首が西瓜から抜けた。そして、河童と友達は、もんどりうって池の中に転がり込んだ。
それを見た役人は、「あの亀に似たやつはスッポンじゃよ」といった。
こんなことがあってから、河童は欲しい物があると何でも水の中に引き込むことを覚えた。
また、スッポン(鼈)は、この時から食いついたらなかなか離さないようになったという。
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