「河伯面」
 天明二年(一七八二年)のこと、天地の異変が甚だしく、世情人身も穏やかでないので、功徳院の亮海大僧都が、当時大きな神通力を持つといわれていた「河童の面」を彫って、世情の安穏と五穀の豊穣を祈念した。
この「河童の面」は、現在、天台五門跡の一つである山科区安朱稲荷山町の「毘沙門堂」の什器となっている「河伯面」だといわれている。
なお、「毘沙門堂」は、大宝三年(七○三年)に開かれた「護法山出雲寺」が起こりで、後に毘沙門天尊像を本尊として公海大僧正が復興した。現在、この毘沙門天尊像は京都七福神の一つになっている。

「勝波尊像」�
 右京区梅ケ畑高鼻町にある「大龍寺」の「明王堂」に「烏樞沙摩妙明王」(うすさまみょうおう)が祀られており、この寺は「うつさんの寺」としてよく知られている。
その「明王堂」の向拝(参詣者の礼拝する所)上部に、一対の「木彫り河童像」が取りつけられているが、この河童像は歌舞伎俳優の二世中村鴈治郎が願主になって奉納したもので、両者とも頭に皿があり、大きな白い目を見開いている。
二世中村鴈治郎が子供の頃、「大龍寺」は中京区裏寺町の南端にあり、初舞台を踏んだ南座の近くであった。
幼少の二代目は芸上達のために繁々と大龍寺に足を運んだが、その総門に「河童の像」一体が掲げられており、周りの人から「ガタロはん(ガタロさん)が見てはりまっせ。立派な役者におなりや」といわれたようである。
長い年月が経ち、大龍寺の河童像もいつの間にか姿を消し、やがて寺自体が右京区に移転した。
そこで、二代目は「ぜひ、大龍寺にガタロを復活させたい」と、昭和五十四年(一九七九年)十月十一日に河童像を取りつけ、同十四日の秋季例祭に入魂式と大護摩を行った。
その後、「形駒屋」(鴈治郎一族)は干支の動物を描いた絵馬を明王堂に奉納し続けていたが、昭和五十八年(一九八四年)に二世鴈治郎が亡くなり、その後は二世扇雀(三世鴈治郎)が跡を継いだ。
なお、大龍寺では、この河童像のことを「勝波尊像」(かっぱ尊像)と呼んでいるようである。

「勝波尊像」�
 右京区梅ケ畑高鼻町にある「大龍寺」の「明王堂」向拝上部に取りつけられている「木彫り河童像」は、向かって右は雄で、口を開けて二本の白い歯をむき出しにし、左は雌で口を閉じており、いわゆる「阿吽」の姿をした河童像なのである。
雄は手に御幣を持って恐い顔をし、雌は手に経巻を持って笑顔をしており、対照的であるが、両者とも頭に皿があり、大きな白い目を見開いている。
大きさは両者とも横八十センチ、縦三十センチで、材はヒメコマツ(姫小松)。原画は水島武氏が描き、渡辺宗男氏が一年がかりで彫り上げたという。

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