明神川と社家

 京都・上賀茂神社の境内を流れる奈良の小川が明神川と名を変え、川沿いに社家が軒を連ねる。社家とは、上賀茂神社の神職の家筋のことで、明治の終わり頃には150ほどの社家が存在したという。
 一般的な社家では、遣水と言って、明神川沿いの石垣に取水口を設けて庭に水を引き込んで、排水口から水をかえす独特の構造になっている。
 神官は、この水で禊をして身を清めて神社に出向いたという。

 


明神川沿いの社家住宅


浦野家の庭:手前に階段がある


明神川からの取水口


井関家と岩佐家

井関家は、上賀茂神社の神職の家系で、貴族階級の正服に剣を腰につける帯状のひもである「平緒」を組まれています。徳川最後の15代将軍の徳川慶喜が将軍職になる時に身につけた平緒は、井関家で組まれたものです。
 明治時代に三階建てにされており、大文字山がよく見えました。社家住宅の特徴は、玄関とは別に「式台」という入り口があり、高貴な方は式台からまねかれたという。今日だけは、高貴な方の仲間になってしまいました。

 


井関家


平緒を組む唐組台

一方、岩佐家は、江戸時代中期までに建築されたと推定されており、室町時代以降の五千点を越える文書や衣服などが残されている。
庭園には、徳川家康が小刀を入れたという「臥竜梅」や、徳川光圀の書画が大事に保管されている。

 


岩佐家の庭園

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