平安以前の京都を語る上で欠かすことができない、賀茂氏と秦氏についてお話をしたいと思います。いつ頃から、賀茂氏がいたのかは明確ではありません。現在でいう「葵祭」の原型である「賀茂の祭」が、欽明(きんめい)天皇1)の時代にはあったとされています。大滝氏(同カッパ研究会 2002年10月31日講演)も話したかと思いますが、賀茂社の祭神である賀茂建角身命は宮崎県の日向から大和の葛城山注)に降りたとされています。それから、山城の(京都府南部にある、現)加茂町へ行き、木津川を上がって桂川へ行き、このまま桂川へ行くか、鴨川へ行くかを考えて、「水がきれいだと」いうことで、鴨川へ来て住み着いたとされています。
 この賀茂氏は、水に関わりのある氏族だと言われてますが、水との関連では、賀茂氏より秦氏の方が関わりが深いと考えられます。なぜなら、秦氏というのは、桂川での水の実権を握っていました。秦氏が京都で勢力を持ち始めた400年代の後半だと考えられています。その理由は 田辺氏が作られた市内の古墳の一覧図によると、秦氏が住んでいたされる嵯峨野に、古墳ができた時代が400年代の後半だからです。それ以前の古墳というのは、深草、八坂、向日町などで多く造られました。他の氏族が暮らしていた地域です。このことから、秦氏が勢力を持つようになった時代がわかります。
 603年に聖徳太子が国宝第1号である弥勒菩薩半伽思惟像(みろくぼさつはんかしゆいぞう)を「だれか、欲しい者はいないか」と尋ねたところ、秦河勝がもらって蜂岡寺を建設します。奈良時代において秦氏はかなりの権力を持っていたのです。
 秦氏は、現在の渡月橋の近くに葛野大堰を造りました。日本書紀などに、秦氏はこの井堰を修理していることが記されています。また、松尾大社の前の松室遺跡では、幅1.5mくらいの水路が見つかっています。秦氏は水を操ることができる一族であったといえます。違うことからも分かります。701年に建立された秦氏がつくった松尾大社の祭神は大山咋神(オオヤマクイノカミ)とムナカタノカミという神です。大山咋神は、もともと比叡山に居た山の神であり、蹴り裂きを行い亀岡盆地を造ったとされています。水を操り農地を造る神を祭神にしていることは興味深いところです。もう一つの祭神であるムナカタノカミという海の神様でした。上田正昭先生から聞いたのですが、山の神と海の神を一つの神社で祀ることは、非常にまれなのです。
 彼らは、平安遷都にも非常に大きな役割を果たしました。長岡京と浪速宮のどちらに遷都するかが議論になり、最終的には長岡京に決まります。長岡京を作った時の主計局長(今でいう大蔵省の事務次官)は秦足長です。秦氏の家には天皇も泊まったとの記録もあり、秦氏は非常に天皇と近い存在だったと思われます。水を操り、農地を造り勢力を蓄えるなかで、平安京の遷都に深く関わる。水を操ることの大切さを示している事例です。

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