平安時代の水を語るには、弘法大師(空海)がクローズアップされます。弘法大師は、平安初期の人です。31才で唐へと渡られ、62才で高野山において亡くなります。48才の時に香川県の満濃池を一年弱で改修しました。満濃池に関わった理由は、弘法大師が香川県の出身であったからです。彼の思想の一つに「現世利益」があります。「現世利益」は、人間は生きている以上、何らかの利益を受けたい。そこで、念仏を唱えたらいいのではなく、利益も「ご提供しましょう」という考え方です。弘法大師たち、僧侶は、病気治療や長寿、雨を司るなどの技術を持っていました。
 日本中に弘法大師が造った井戸や池がたくさんあります。自分たちの真言宗を広めるために「ここを掘ったら水がでますよ」などといい、本当に掘ってみると水がでる。そこに暮らす人びとが「素晴らしいご利益がある」と思い、真言宗は広まっていきました。そのような形で広められて、一種の象徴化されたものが弘法大使に関わる伝説です。
 弘法大師は嵯峨天皇から823年に東寺を任されます。東寺と西寺には、勢力争いをしていたという話もあります。この東寺と西寺で雨乞いの技術比べをしたのが、善女龍王と弘法大師の話です。このことで、西寺が勢力をなくしたと書いてある本がありました。
 事実、東寺と西寺を比べると、西寺側が寂れて行きました。その理由は、地下水と排水の関係だと考えられます。西側の土が粘土質で排水が悪く不衛生だったのです。都人は、砂質土の東側へ移動をしました。平安初期の文献には右京や左京の言葉があるのですが、それが平安末期になってくると、西側にはあまり人が住まなくなり、上京と下京の言葉が使われるようになります。
 昔の人たちは、水がなければ暮らしていけなかったのです。いまは、上水と下水が整備され、どの土地も同じですが、当時は水が排水されなければ暮らすことができなかったのです。当時、上水は基本的に井戸水でした。これは、3mから5mほど掘りますと井戸から水が湧きました。排水は川へ流していました。そのため、12本の川を作りました。その中の2本は運河としても利用していましたが、残りは排水として利用していました。

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