第11回 京の水文化を語る座談会報告
中世から近世の鴨川の風景を歩く


かつて松原橋辺りの鴨川に島があった!

 中世の京都・鴨川を描いた「洛中洛外図屏風」を見ると、五条橋付近(現在の松原橋)の鴨川に島が描かれており、そこには法城寺や晴明塚が見られる。法城寺は、鴨川の洪水を治めるために安部晴明が造ったという伝承が残されており、寺の名前自体に、「水が去りて、土と成る」という洪水を防ぐ思いが込められているという。また、この五条橋中島には、鎌倉時代に禹王廟があったという。禹王は、中国の初代王朝夏の初代の王で、黄河の治水に力を注いだというところから、中国の道教では、治水や土木工事の神様として崇められている。この禹王廟が、法城寺と何らかの関連があったのではないかと考えられている。

鴨川の東岸は治水神の聖地であった!

 鴨川は天下の暴れ川であり、白河法皇は「朕の思いのままにならないもの、それは賀茂川の水、双六のサイコロ、そして比叡山の山法師(僧兵)」と嘆いたうちの一つが、鴨川の洪水であった。度重なる鴨川の洪水に対して、中世から近世にかけての京都市民は、四条から五条にかけての鴨川の東岸を「治水神の聖地」と認識していたという。鴨川の河原は、彼岸(あの世)と此岸(この世)との境界と認識されており、橋は神仏への参詣の道であり、祇園社への四条橋、清水寺への五条橋(清水橋とも清水寺橋とも呼ばれた)に象徴されている。鴨川の東側が鴨川の治水神の聖地となったのは、このような中世の京都市民の観念が影響しているとも考えられている。この地域のあちこちには、中国の治水神・禹王、平安時代の陰陽師・安部晴明、弁財天など水に霊験のあるさまざまな神仏を祀る祠が点在していた。

 


再興された弁財天


清明塚の後継・荒龍神社

特定の神格を持たず、流浪する鴨川の治水神

 江戸時代の地図には、五条橋中島は見られない。はっきりした理由はわからないが、天下人豊臣秀吉が御土居や方広寺建設など京都大改造の一環でつぶしたという説が有力である。五条大橋中島は、当時の陰陽師の最大の拠点の一つであり、権力を掌握したい秀吉にとっては目障りな場所であったこと(実際、秀吉は陰陽師狩りを行っている)や、方広寺の石材などの建設資材を鴨川の舟運により運搬するために浚渫したことなどにより、失われてしまったという。文献により、五条橋地点(現在の松原橋地点)の鴨川の川幅を見てみると、中世の応永16年(1409)には、約260mであったが、近世の宝永8年(1711)には、約115mと半分になっており、五条橋中島が中世から近世の間に消えてしまったことが推察される。

 


五条大橋橋脚
天正17年(1589)の銘が残る
秀吉建造の五条大橋の橋脚

 五条橋中島が失われてしまった後も、鴨川の治水神は、京都市民の根強い信仰にささえられ、しぶとく流浪する。室町時代のある時期には、四条橋東側の大和大路角に禹王社ができる。一方、鎌倉時代の初めに、白川の北側に弁財天社ができる。これは、鎌倉時代(1228年)に鴨川に大きな洪水があり、鴨川の治水を担当する防鴨河師の勢多判官為兼がある僧から、「この洪水は人力では防げない、河北に弁財天、川南に禹王廟を建立すればよい」と言われたという伝承に基づいている。
 近世に入ると、禹王社は伊勢神宮の分社である神明社となり、幕末には大火で焼けてしまう。この時期に、これらの断片的な信仰を集大成して京都最大の治水神の根拠地としてのしあがってきた寺院が、目疾地蔵仲源寺であった。

現在も生き残る禹王にまつわる「目疾地蔵仲源寺」

 


目疾地蔵仲源寺
「雨奇晴好」の扁額が治水信仰を偲ばせる

 目疾地蔵仲源寺は、名前のとおり眼病平癒の信仰で有名な寺院である。
 その一方で、近世の京都市民はこのお地蔵さんを「雨止地蔵」とも呼び、鴨川の洪水を治めてくれる仏様であるという伝説を信じていた。江戸時代のある時期に、この地蔵は実は、禹王の化身でもあると立候補し、鴨川の治水神として寺院の多角経営を始める。この背景には、治水神の聖地である鴨川の東岸に位置していたこと、また、かつて禹王社を名乗っていた神明社が隣接していたことが好都合であった。
 この禹王という神様は、なじみがなくなかなか定着はしなかったが、京都市民の信仰にささえられ、神格を変え何らかの形で流浪している。団栗図子から発生した天明の大火の際に、すぐ近くで奇跡的に焼け残った恵比寿神社が、実は水の神様である禹王を祀っていたからと主張したり、六波羅閻魔堂の閻魔様が禹王であると思われていたり、京都市民の鴨川の治水神に対する信仰は大変根強いものがあったようである。   

鴨川の治水はもう万全なのか

 鴨川の治水は、現在の防鴨河師である京都府により担われているが、決して万全ではない。平成12年の東海豪雨規模の降雨があれば、京都市内がかなり広範囲に浸水する状況が想定される。昭和10年の鴨川大洪水以降、大きな洪水を経験していない京都市民には、鴨川が氾濫し大きな水害が発生するという感覚は少ない。鴨川の治水神を復活せよという気はないけれど、鴨川という自然が相手であるかぎり、現在においても人力だけでは万全ではない。現在の防鴨河師としても、鴨川の治水に対して全力を尽くさなければならないけれど、京都市民1人1人の洪水に対する畏怖の念と、まさかの洪水に対して、したたかに自らの生命を守るという強い心がけが肝要と考えている。

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