かつて松原橋辺りの鴨川に島があった! 中世の京都・鴨川を描いた「洛中洛外図屏風」を見ると、五条橋付近(現在の松原橋)の鴨川に島が描かれており、そこには法城寺や晴明塚が見られる。法城寺は、鴨川の洪水を治めるために安部晴明が造ったという伝承が残されており、寺の名前自体に、「水が去りて、土と成る」という洪水を防ぐ思いが込められているという。また、この五条橋中島には、鎌倉時代に禹王廟があったという。禹王は、中国の初代王朝夏の初代の王で、黄河の治水に力を注いだというところから、中国の道教では、治水や土木工事の神様として崇められている。この禹王廟が、法城寺と何らかの関連があったのではないかと考えられている。
鴨川は天下の暴れ川であり、白河法皇は「朕の思いのままにならないもの、それは賀茂川の水、双六のサイコロ、そして比叡山の山法師(僧兵)」と嘆いたうちの一つが、鴨川の洪水であった。度重なる鴨川の洪水に対して、中世から近世にかけての京都市民は、四条から五条にかけての鴨川の東岸を「治水神の聖地」と認識していたという。鴨川の河原は、彼岸(あの世)と此岸(この世)との境界と認識されており、橋は神仏への参詣の道であり、祇園社への四条橋、清水寺への五条橋(清水橋とも清水寺橋とも呼ばれた)に象徴されている。鴨川の東側が鴨川の治水神の聖地となったのは、このような中世の京都市民の観念が影響しているとも考えられている。この地域のあちこちには、中国の治水神・禹王、平安時代の陰陽師・安部晴明、弁財天など水に霊験のあるさまざまな神仏を祀る祠が点在していた。
五条橋中島が失われてしまった後も、鴨川の治水神は、京都市民の根強い信仰にささえられ、しぶとく流浪する。室町時代のある時期には、四条橋東側の大和大路角に禹王社ができる。一方、鎌倉時代の初めに、白川の北側に弁財天社ができる。これは、鎌倉時代(1228年)に鴨川に大きな洪水があり、鴨川の治水を担当する防鴨河師の勢多判官為兼がある僧から、「この洪水は人力では防げない、河北に弁財天、川南に禹王廟を建立すればよい」と言われたという伝承に基づいている。
目疾地蔵仲源寺は、名前のとおり眼病平癒の信仰で有名な寺院である。
鴨川の治水は、現在の防鴨河師である京都府により担われているが、決して万全ではない。平成12年の東海豪雨規模の降雨があれば、京都市内がかなり広範囲に浸水する状況が想定される。昭和10年の鴨川大洪水以降、大きな洪水を経験していない京都市民には、鴨川が氾濫し大きな水害が発生するという感覚は少ない。鴨川の治水神を復活せよという気はないけれど、鴨川という自然が相手であるかぎり、現在においても人力だけでは万全ではない。現在の防鴨河師としても、鴨川の治水に対して全力を尽くさなければならないけれど、京都市民1人1人の洪水に対する畏怖の念と、まさかの洪水に対して、したたかに自らの生命を守るという強い心がけが肝要と考えている。 |